昭和47年5月31日 朝の御理解
                     中村良一
御理解 第64節
「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」



身しのぎをするようになれ。信心を、段々いただき、分からせて頂くようになったら、第一、心が、何時も平生を保つことが出来る。まぁ、いうなら、いらいらすることが無いではないけれども、金光様を唱え、教えを、日頃の教えを思い浮かべさせて頂くと、その、いらいらもせんで済む。腹も立たんで済む。心配もせんで済む。人を疑ったり、憎んだりすることも無くて済む。私は、そういう心の状態にならせて頂く時、そういう、おかげを受けたことが有難いなぁと、分からせていただくところまでが、私は、身しのぎが出来ると言うことだと思うですね。見しのぎが出来ると言うこと。ね。只今、申しましたように、ね。そういう自分にならせて頂いた事を、そういうおかげの頂けれる信心を、頂いておる事が、有難いなぁという、その心が、真に有難い心です。
信心するようになったら、あれを貰うた、これを頂いたと言う、あの、まぁ、おかげという事ではなくてですよ。勿論、おかげも頂かにゃなりませんけれど、ね。お願いしてから病気が助かった。お願いして、金銭のお繰り合わせを頂いたという事が、有難いと言うのは、それは、長く続くもんではありません。そういう、自分が思うようになった時だけが有難い。後は、段々薄くなっていくもの。けども、自分の心の上にです。今、申しますような、色々なね、まぁ、不幸と言うか、不幸せの心ですね。人を憎まんで済む、疑わんで済む、ね。または、自分が腹を立てんで済む。いらいらせんで済む。心配せんで済むと。まだ、他に、色々ありましょうがね。信心させて頂いて、もう、言うならば、信心を頂くようになって、このように、自分の心が救われ、助かって来ておるという事がです。本当に、有難い信心を頂いたもんじゃあるなぁと。そういう思う心から、生れてくる有難い。有難いことになってきたぞと思わせていただく心が、真に有難い心。だから、そういう心にはです、ね。真に有難いと思う心、すぐにみかげの始めと仰る。そういう心の状態になると、おかげは頂けるのであり、付いて来るのです。
ですから、そこの所までが頂けた時がです。私は、初めて、ね。言うならば、身しのぎの出来る信心が出来たという事になるのじゃなかろうか。してみると、合楽では、随分もう、見しのぎの出来られる方達がおられるなぁと思いますね。で、それは、やっぱ、(来た当時は、ちょっと、いないですから、?)ね。悪口言われりゃ、ちょっと腹も立つですけれども、すぐ、その後にです、ね。日頃の御教えが、心の中に生き生きとしてくる。はぁ、ほんなこつ、こんな事、腹立てる事じゃなかった。心配するこっじゃなかった。かえって、神様にお礼を申し上げることだったのにと、すぐ気付かせて頂けれる。まぁ、本当に有難いなぁ、こう言う問題を、こういう風な受け方が出来るという事は、有難いなぁという、その有難いが真に有難いのだと。私は、今日、そう思うですね。
昨日、合楽食堂の中村さんが、大体あんたどんな、そうにゃ参りよるが、金光様ちゃ、そん、どげな神様のち。さぁ、皆さん、どう答えられますか。なかなか答えられませんです。ちょいと、まぁ、しかも、簡単、簡潔明瞭にですね。ほう、そげなこつの、そりゃ、有難かなと、相手に言わせる、思わせるような、なかなか表現は出来ませんけれども。その前日、御理解頂いておった、御理解の中から、ぱっと開いて、もう、説明しておる事なんです。そらね、信心しよったっちゃ、いろんな事があるよち。あの、それはもう、苦い事もありゃ、臭い事もありゃ、甘いことも、色々あるけれども、ね。とても、普通なら、頂けないこともあるけれども、お参りをさせて頂いて、お取次ぎを頂かせて貰うとね。もう、苦いものは苦いもの。臭いものは臭いものの、言うならば、頂き方、味の付け方を教えていただく。もう、これが、何ち言うたっちゃ、一番有難かち言うたら、はぁち、たまがったげな。私は、それを聞いてね。素晴らしい、あの、金光だまの信心ちゃ、素晴らしい、言うなら、説明のしかただなぁと思ったんです。金光様とは、こうだこうだと、例えばね、その、教典を言うて聞かせたり、その、どういう性質の神様であるとかと言った様な事を説明しただけではなくてです。ね。人間、生きていく上には、様々な事があるんだと。あるんだけれども、お取次ぎを頂いて、おかげを頂いていくと言うだけじゃなくてですね。お取次ぎを頂くと、その、例えば、食べられないような、頂けないようなものでも、それを、頂く術を教えていただく。その味付け方法を教えていただく。それが有難いけん、毎日参りよるち言うて言う、ははぁと言うてその、感心されたと。私は、それを聞きながら、ほほ、こりゃ、誰でん、いっちょ、教えにゃいかんなと思ったです。皆さんも、そうでしょうが。どんな問題でもあるんですけれども、その都度都度に、お取次ぎを頂いて、ね。心の中に、言うならば、安心がいる。
昨日は、ちょうど、四時の御祈念が終わったところへ、秋永先生達夫妻、新しい新車が参りましたからと言うて、お礼お届けに見えました。それで、御祓いを済まさせて頂いて、私も、ちょうどここ、四時の御祈念を済ませたところでしたから、外へ出てから、その自動車を、はぁ、やっぱ、なるほど、御神意のまにまにおかげを頂いたんだから、もう、こげな色の自動車ちゃ、見たこつもなか、こりゃ、なんとも言えんその、まぁ、上品な、それでいて、まぁ、商売人が乗るとにゃ持って来いといった様な色合いだねと言うて、ほんなら、ちょっと、そこまで乗せて貰おうかと言うて、あの、乗せて貰いました。だから、今日は、秋永先生は、どこまで乗せていくか知らんばってん、あちらの、田主丸のほうへ向かって行きますから。こら、ひょっとすら、日田まで行くかも知れん。はぁもう、ここで良かち言わんで、いっちょ、行くところまで行こうと思いましてね、乗っとりました。と言うのはね。お願いさせて頂きよりましたら、どこまでいても青という事を頂きました。乗る時に。どこまで、ははぁ、だから、どこまででも、いっちょ、行って見ろうと思いましたら、なるほど、ずーっと、田主丸まで参りましたが、もう、青、信号がね、青、青、青なんです。そしたらもう、この辺から回りましょうかと言うてから、こう回って、また今度、帰りがけ、ここに帰ってくるまで、青、青、青でした。だから、秋永先生、こげん頂いて、今日は、どこまでいても青、青、青と頂いたが、ね。その通りじゃったのと。ほう、そげなこつですかという事じゃないですよね。その事でです。あの、その車を使わせて頂くのにね、このような神様の御守護のなかにあるんだなぁと、私も思い、秋永先生も、それを思わん筈は無いですね。そるきんち言うてから、こんだ、どこに行く時でん青ばっかりち言う意味じゃないですよ。その日がですたい、ね。お届けに見えた、昨日がです、どこまでいても青、青とこう、ね。そういう、例えば、御守護のなかにあると言う事がです。有難いと言うことになるのです。ね。例えば、その、新しく買われた、その自動車のナンバーが、こうこうこうだと、もう、それだけででも、御守護のなかにある車だと分からせてもらう。ね。
此方は、参ってたずねるところがなかったけれども、ほんなら、ここへ、それをたずねてきたわけじゃないけれどもです、ね。いわば、安心のいけれる状態が、心のなかに頂けれる。という事がね、有難いなぁ、こりゃもう、どこででも出来ることじゃない、金光様のご信心でなからにゃ出来ることじゃない。合楽でなからにゃ出来ることじゃないと思うから、いよいよ有難い。その有難い心が、真に有難い。
昨日は、私は、非常にこの、合楽の場合、その、あまりにも、その、そのバラエティに富んどるとでも申しましょうかね。実にその、神様のご演出の、その見事さというかね、素晴らしさというか。それがもう、本当にあの、嘘のようにあるわけですよね。例えば、昨日も、上野先生の、学院での同期の、二人とも、いわゆる、合楽、一人は、もう、それはもう、大変な病気でした。その病気、こげなこっで、学院に行けるじゃろうかいう様な人でした。それが、ここでおかげを頂いて、もう、あまり有難さの一念でね。長い間働いて、郵便局に貯めておったお金を、その通帳ぐるめお供えをすると言うほどしに、おかげを頂いた。そうしにゃおられんほどしにおかげを頂いた。田舎の、ある教会なんですけれどね。ですから、あの、あちらへ行っても、まぁ、こちらの、いわゆる、御理解集など見せていただくのが、まぁ、有難いだろうし、または、しょっちゅう、お参りをして来よりました。あの時は、確かあの、こちらへ参りましても、大変、身体が苦しい、それで、お身内がとこへ、一晩泊まらせて頂いて、その、一晩泊まって、一生懸命、お話をしておるうちに、非常な感動が起こってから、もう、とにかく、震いだすごと、有難うなってきた。それっきり、おかげ頂いたんですからね。その晩。という様な人なんですけれども、学院に行ってる間に、ある、若い同期の方と、恋愛をして、それで、その男の方を連れて、ここに参ってまいりました。その、どうして、教会のほうからもお出でられない、こちらの、自分の里のほうからも、色々、あれがあると言うのでね。まぁ、ようやく、まぁ、自分の里のほうだけは、説得して、けれども、向こうのほうの教会が、どうあったらいいか、どうしたらいいかという事を、あの、言うてお参りして来ました時にね。もう、誰やら彼やら、お世話にならんで良かところに、一つね、もう、新地布教でもいいじゃないの、もう、誰にもお世話にならんでも良かとこに行って、おかげ頂きなさいと、私が言った。そしたら、それからすぐ、あの、磐木市、磐木というろころに、十五年ぶりに、教会が出来たと。もう、全然、教会が無いところらしいです。それで、昔その、十五年前に、教会を出来られたけれども、もう、立ち行かずに、お終いになっている教会にね、を、立てげ、夫婦で行った訳です。私は、それを読ませて頂きながら、もう、本当に、なんと厳しいことだろうと思ったんですけれどもね。一ヶ月に三人しか、お参りがなかげな。一日にじゃないですよ。ね。そういう厳しい中にです。もう、本当に、信心の有難さ、いよいよ、道を求めて、夫婦のものが、一生懸命にならせて頂いておることをね。ま、細々と書いて見えておられますが、本当に、有難いことだなと、こう思います。
と同時に、あの、これもやっぱり、合楽ファンでね。こっから、何時も、あの、おかげの泉を送ってあげるのも、楽しみに、それを信心の稽古の、一つ目当てのようにして、おかげを頂いておる先生がおります。それが、この頃から、五十日ばかり前に、結婚いたしましてね。京都の、とある教会に縁付きましたんです。しかがや教会、京都市左京区のしかがや教会に縁に付いておる。まぁだ、五十日余りにしかならん。もう、あの、初めてあの、それ以来、手紙をもう、長々と書いて来とりますけれども、この人はもう、実に律儀な方でね。もう、お初穂どん入れて来んちいう事は、絶対無い人なんです。けれども、もう、色々と、手紙に、長々と書いておりますけれども、お初穂が入ってないのを見てから、やっぱり、厳しいとこを通っているなぁと思うて、という様にです。例えば、同じ様なタイプの、同じ様な人達がこう、続くという事ですね、合楽の場合は。神ながらだなぁと、これを何時も思います。ね。
私の茶の間に、あの、亀甲型のケヤキの火鉢がある。あると言うたら、今度はまた、同じ様な、その、ただ一回り大きな火鉢が、あすけ、ならんで、こう置かれる。もう、実に素晴らしい雰囲気を作ってるです。というようにね。もう、本当に、神様の、その演出には、恐れ入ってしまう、何時の場合でも。ね。そういうね、例えば、神様の、だから、信心が楽しゅう、有難う出来るのです。どういう時であっても。ね。こういう神様の働きのなかに、私共が、おかげを頂いておるという事を、分からせていただく。合楽に参って来よると。
遠路の所を、いわば、参ってくるけれども、そういう有難いことに触れる。見ることが出来、聞くことが出来ると言うことは、有難い事ではないかと。それが、積もり積もって、自分の上にも、それが、頂けてくるようになるから、有難いのである。ね。本当に、こういう有難い、今、ここでオイサミがありましたね。ね。それなんです。ね。こんなにも間違いの無いことを、教えて頂くという事は、なんと有難い、・・・。いわゆる、こう言う間違いのない生き方。こういう間違いの無い、とても、普通では頂けないことでも、こう言う素晴らしい、味付けの方法を教えて頂くという事は、有難いことだなぁと、思わせていただく心が、真に有難い、ね。その心が、次のおかげを呼ぶのである。もう、私は、そういう信心ならせて頂く時に、見しのぎが出来ておると、私は思います。
信心して徳を受けて身しのぎをするようになれと。ね。徳を受けるという事はね、そういうことだと思うんです。ね。いわゆる、どのような事柄が起きって来ても、御の字を付けて頂くと言う。ただ、簡単に、それだけだけれども、何故、御の字を付けて頂かねばならないかという。いうならば、頂き方を教えていただく。なるほど、やはり、御の字を付けるべきが本当だと言うことが分かってくるのです。そういう、信心が、繰り返されていく時に、もう、必ず、お徳を頂いていくのです。ね。此の方は、参って尋ねるところがなかったと。果たした、本当に、現在、ま、合楽以外の教会でと申しましょうかね。参ってたずねるところが、それはあの、探りを入れるような事へなら、どこの教会でも出来ますよね。例えば、病人なら病人に、どげな薬を飲ませていいじゃ分からんけん、探りを入れると言うでしょう、お医者さんが。ね。けども、ここの場合には、それは、こう言う味を付けれと、はっきり、教えて頂くでしょう。ね。だから、そういう意味でです。私は、合楽にご縁を頂いておるという事は有難い。ほんなら、それを、ただ、合楽にご縁いただいとるけん有難いと言うだけではなくて、そういう例えば、信心が、繰り返されていくところからです。そういう信心を身に付けていくから、合楽が有難くなってくるのです。ね。だから、どうしても、合楽にご縁を頂いておる事を、有難いと心から思えれるようにならなければいけません。為には、やはり、ね。その、中村さんじゃないですけれども、様々な事の中からです、ね。その頂き方、味付け方を覚えさせて貰うて、なら、毎日、毎日、問題はある。で、その問題の、味付け方を教えていただいて、日々を過ごせるという事が有難い。しかも、そういう生き方こそ、身に徳を受けることなんです。ね。だから、身に徳を受けて、見しのぎ、だから、見しのぎが出来るようになってくる。ね。
苦労性の人があります。もう、そげなこつ言わんで、心配だけはさせてくれんのち言うごとして心配をする人がいますけれどもね。そういう人でも、段々、お話を頂きよると、心配せんですむようになってくる。ね。本当のことが分かるからです。
痛いところは、さすって貰い。痒いところは、掻いて貰いながら、信心を進めていく。ね。そういう信心を進めていくうちに、お徳を受けることが出来る。そうしていくうちに、心配せんですむ、疑わんですむ、いらいらせんで済む、腹を立てんで済む、人を憎んだりせんで済む心の状態が、いよいよ、育ってくる。育ってくる、それが、お徳を受けた証拠ですから、そのことを、真に有難いなぁと思わせていただく。だから、真に有難いと言うのは、おのずと信心が身に付いて来るとです。まぁ、どんなに考えても、有難いなぁという事になるんだと思うですね。その、真に有難いと思う心が生れてくるようになる。しかも、神様の、一分一厘間違いのない、いうならば、ご演出の中に、言うならば、一つのリズムに乗ったような生き方とでも申しましょうかね。真にその、バラエティに富んだとでも言おうかね。そういう、不思議な、言うならば、有難さというか、まぁ、信心の面白さと言うても良いでしょう。どげん考えたっちゃ、本当にありがたかのち、何時も、私が、こう申しますでしょう。それは、そういう場合なんですね。そういうのが、自分の身の上にも、家庭の上にも頂けるようになりますから、いよいよ、有難いものが募ってくる。その、有難いと言う心に、おかげが頂けるようになる、それを、私は、今日は、見しのぎが出来るようになったとは、そういう信心のことを言うのだと思います。どうぞ。